


出演:毛利悟巳
プロデューサー・撮影・脚本:真野勝成
(脚本家/「相棒」「デスノート Light up the NEW world」)
共同プロデューサー・構成・編集:佐々木誠
(監督作「ナイトクルージング」「マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画」)
デザイン:三宅宇太郎/WEB制作:上田茂/題字・イラスト・テロップ:山本アマネ
Special thanks:巻来功士/制作協力:株式会社クロオビ
2020年/58分/DCP/16:9


出演:毛利悟巳
プロデューサー・撮影・脚本:真野勝成
(脚本家/「相棒」「デスノート Light up the NEW world」)
共同プロデューサー・構成・編集:佐々木誠
(監督作「ナイトクルージング」「マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画」)
デザイン:三宅宇太郎/WEB制作:上田茂/題字・イラスト・テロップ:山本アマネ
Special thanks:巻来功士/制作協力:株式会社クロオビ/配給・宣伝:ブライトホース・フィルム
2020年/58分/DCP/16:9
NEWS / Twitter
INTRODUCTION
池田英彦・40歳・四肢軟骨無形成症
スキルス性胃ガンステージ4・趣味:ハメ撮り
身長 112 センチの青年が人生最後の2年間を凝縮した
初主演・初監督作にして遺作!
池田英彦・40歳
四肢軟骨無形成症
スキルス性胃ガンステージ4
趣味:ハメ撮り
身長 112 センチの青年が
人生最後の2年間を凝縮した
初主演・初監督作にして遺作!
生来の障害(四肢軟骨無形成症・通称コビト症)を持つ池田英彦(1974~2015)は39歳の誕生日目前でスキルス性胃ガンステージ4と診断される。「今までやれなかったことやりたい」死を意識した池田の行動は性愛に偏っていき、自分と女性のセックスをカメラに収める“ハメ撮り”にはまっていく。そしてそれらを映画として遺すことを企む。20年来の友人である脚本家・真野勝成が協力し、2年間で撮影された素材は60時間を超えた。そして池田の死をもってクランクアップ。池田の「僕が死んだら映画を完成させて、必ず公開してほしい」という遺言に従い、真野は映画を完成させた。そして2020年12月にアップリンク渋谷にて行われた上映会で熱烈な反響を受け、劇場公開が決定した。
愛とセックス、虚と実、マイノリティとマジョリティ...
それら境界線を冒険する。
ドキュメンタリーを超えた異色のセルフ・リアリティ・ショー!
愛とセックス、虚と実、
マイノリティとマジョリティ...
それら境界線を冒険する。
ドキュメンタリーを超えた
異色のセルフ・リアリティ・ショー!
障害と性、死を描きながら本作にはポップな魅力が溢れている。自らを被写体にする池田が死の間際でもユーモアを忘れず、ドラマ『相棒』の脚本で知られる真野との相棒(バディ)感あふれる軽妙なやり取りは笑いを誘う。「理想のデート」の相手として出演する毛利悟巳は池田を「虚構と現実」の狭間に導く重要な存在として清冽な印象を残している。そして編集を担当した映画監督・佐々木誠は自らの過去作と通底するテーマである「虚実皮膜」を池田の遺した膨大な映像の中に見出し、58分に凝縮してみせた。それにより善意と偽善の曖昧な境界線に楔を打ち込もうとした池田の闘争心が昇華され、単なるドキュメンタリー映画を超えたポップで骨太、本当の意味での多様性を問う異色作が完成したのである。

PRODUCTION NOTE



2013 年 10 月
四肢軟骨無形成症(通称コビト)の池田英彦(当時39歳)はスキルス性胃ガン・ステージ4と診断された。闘病生活の開始とともに死を予感してもいた池田は「やり残したことがないように悔いのないように生きる」ことを決める。池田が何よりやりたいこと、それはセックスだった。
2014 年 1 月
池田は自分のセックスを映像として記録に残し始める。いわゆるハメ撮りである。そして池田は20年来の友人である脚本家・真野勝成との会話の中で、自分自身を「映画」にすることを思いつく。相棒・真野を引き連れ、カメラを片手に池田は夜の街に繰り出していく。その一方で真野によるインタビューでは複雑な恋愛観を語っていく。そして「理想のデート」を実現するために俳優・毛利悟巳に出演を依頼し、デートシーンを撮影する。その中で池田は虚実の境界線を彷徨い始める...

2015 年 2 月
自ら映画を制作する中で池田は映画そのものに傾倒し、様々な作品に触れていく。その中で一本の映画と運命的な出会いを果たす。『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』である。監督の佐々木誠と池田が会ったのはたった一度だけ。真野と佐々木はその後、友人となった。
2015 年 10 月
2年の闘病の末、池田は逝った。享年42歳。「僕が死んだら映画を完成させて、僕の本当の姿をみんなに見せて欲しい」その言葉と60時間以上に及ぶ映像が真野の元に遺された。真野は映画を完成させるために、佐々木誠に編集を依頼し、遂に池田英彦の初主演初監督作にして遺作となる『愛について語るときにイケダの語ること』が完成した。

STAFF & CAST
池田英彦 いけだ・ひでひこ(監督・主演)
1974年10月17日生まれ。神奈川県出身。
中央大学卒業後に相模原市役所に勤務。
39歳の時にスキルス性胃癌のステージ4と宣告される。それを機に映画とカメラに目覚め、自らを被写体にドキュメンタリー映画の撮影を開始する。しかし映画の完成を待たずに死去。享年42歳。本作が初監督作にして遺作となる。
毛利悟巳 もうり・さとみ(出演)
日本大学芸術学部演劇学科卒業。主な舞台出演作に『真冬のバーレスク』『そよ風と魔女たちとマクベスと』(串田和美演出)、『じゃり』(小川絵梨子演出)、『グリークス』(杉原邦生演出)、『走り去る人たち』(永井愛演出)、『あの記憶の記録』(日澤雄介演出)等。『相棒15 元日スペシャル』(テレビ朝日)他映像や写真作品にも多数参加。
佐々木誠 ささき・まこと(共同プロデューサー・構成・編集)
映像ディレクター/映画監督。75年生まれ。主にPV、CM、テレビ番組などを演出。映画作品に『フラグメント』『インナーヴィジョン』『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』『プレイルーム(「熱海の路地の子」)』『ナイトクルージング』などがある。
真野勝成 まの・かつなり(プロデューサー・撮影・脚本)
75年生まれ。週刊誌記者を経て、第21回フジテレビヤングシナリオ大賞佳作入賞、脚本家となる。脚本を担当した作品はドラマ『新参者』ドラマ『相棒』映画『デスノート Light up the New world』など多数。本作が初プロデュースとした映画となる。
デザイン:三宅宇太郎/W E B制作:上田茂/題字・イラスト・テロップ:山本アマネ/Special thanks:巻来功士
制作協力:株式会社クロオビ/配給・宣伝:ブライトホース・フィルム

縁あって、今回、私がその映像を編集し作品にまとめることになりましたが、残された約60時間の映像素材の多くは、池田さんの性愛の記録でした。
私は障害を持った方の性を軸にした作品をいくつか手がけておりますが、実際のセックスそのものを撮ったことはありません。
ちょうど『マイノリティとセックスに関する〜』公開の際に原一男監督と対談をしたのですが、そのとき原監督から、あなたと対象との関係性を考えたら、実際セックスをしている場面を撮れると思うんだけど、なぜそれをしないのか、と問われ、私は「品がないと感じるから撮りたいとは思いません。それを撮ったことで、わかった気になるのも嫌で。見て、撮っただけで、問題の答えが明らかになるとも思えなくて」というような返答をしました。
しかし、池田さんが残した生々しい性交の記録は、全く下品に感じませんでした。

ハンサムで聡明、ユーモアもある池田さんですが、自身の障害を常に意識して生きてこられたんだな、と、そしてそれにケリをつけるためにこの映画を残したんだな、と強く感じました。
池田さんが命をかけて残した本作品をぜひ多くの方に観ていただきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
COMMENT
主人公は四肢軟骨不形成症、いわゆるコビト。
その彼が自らのセックスを我が身を晒して撮ると決める。
一見スキャンダラスに見えるが、実は優れて知的冒険心に満ち、精神の働きの充実さを示す、生きた証なのである。
いかんともしがたい醜さやかわいさが体というものから濃密に匂ってくる。
心と体を分けて、体はただの入れものだとするという考え方、私は最近あまり好きじゃない。
厄介な奴だけど、体は切り離せない自分の一部である。
エンターテイメントでも芸術でもなく、「全人類」必修!生きることヤルことの「基礎教養」。
昔の AV みたいな画質に風俗嬢とコビト症のイケダさんが絡み合っている。不思議と猥褻さは無い。ホドロフスキーの映画や “ザ・ノンフィクション”を思い出したりしてたら、滝藤賢一に似てしまったイケダさんが出てきて映画が終わった。試写室を出て 新橋駅に向かう途中、急に涙が出そうになったけど、ここで泣いたらあの世のイケダさんにニヤニヤされそうで我慢した。悲壮感ゼロの壮絶な生き様でした。
人が生き,人が死んでいく中でどういった思いを抱えていくのか,死と向き合って何を始めるのかは人それぞれだけれど,生の声や悩みや人間性が凝縮されたフィルムから得られる死と生の肉薄と,そこに時折垣間見える歪んだ人間性の美しさが,まさしく人間讃歌的でもあるし青春映画でもあると思った.
人が生き,人が死んでいく中でどういった思いを抱えていくのか,死と向き合って何を始めるのかは人それぞれだけれど,生の声や悩みや人間性が凝縮されたフィルムから得られる死と生の肉薄と,そこに時折垣間見える歪んだ人間性の美しさが,まさしく人間讃歌的でもあるし青春映画でもあると思った.
イケダは「愛」について行動し、考察する。
それと同時に、カメラの前では「演技をする自分」について言及する。
カメラという呪術的な道具は、「愛」と「演技」を持って、「生」と「死」を丸裸にしてしまう。映像はいつしかイケダの裸体を何度も通り抜け、何物かを映し出す。
メディアとは常に遺され、残された者たちへの遺言となる。
イケダは「愛」について行動し、考察する。
それと同時に、カメラの前では「演技をする自分」について言及する。
カメラという呪術的な道具は、「愛」と「演技」を持って、「生」と「死」を丸裸にしてしまう。映像はいつしかイケダの裸体を何度も通り抜け、何物かを映し出す。
メディアとは常に遺され、残された者たちへの遺言となる。
ずっと、池田さんの魅力にやられっぱなしでした。 まるで池田さんのマジックにかかったように、出会う人もみんな魅力に溢れてて、ニンマリしちゃう。 カメラを向ける真野さんと池田さんとの関係が微笑ましいし、羨ましいしで。 なんて素敵な、青春バディムービーなんだ!と思いました。 みんなにはこの映画はどう映るんだろう。どんなマジックをかけられるんだろう。 どう観てもらってもいいよって言ってくれてるような、自由で寛容な映画。
僕、大好きです!
ずっと、池田さんの魅力にやられっぱなしでした。
まるで池田さんのマジックにかかったように、出会う人もみんな魅力に溢れてて、ニンマリしちゃう。
カメラを向ける真野さんと池田さんとの関係が微笑ましいし、羨ましいしで。
なんて素敵な、青春バディムービーなんだ!と思いました。
みんなにはこの映画はどう映るんだろう。どんなマジックをかけられるんだろう。
どう観てもらってもいいよって言ってくれてるような、自由で寛容な映画。
僕、大好きです!
可哀想で、守られるべき、小人。 そんな私たちが漠然と思い描いている障害者像を、イケダは完膚無きまでに破壊してくれる。 彼も我々と同じく清濁様々な欲望を持ち、必死に生きてる、普遍的な人間の一人なのだ。 表現の自由と禁忌の境界線をめぐるスリリングな冒険。
本当に揺さぶられた。
必見の一作。
イケダさんの瞳、その体を支える手のネイル。倒れたプーさん。そして登場人物たちのはにかんだ笑顔と笑い声。この映画は愛についての映画ではなく、愛の映画だと思う。それは観せることではなく与えることに賭けた映画だからだ。ハムレットの言葉を借りるならば“いつかの亡霊(愛)は悪魔の仕業やもしれぬ。もっと確かな証拠が欲しい。それには芝居こそもってこいだ”キックボードに乗ったイケダさんは軽やかにラインを越える。
イケダさんの瞳、その体を支える手のネイル。倒れたプーさん。そして登場人物たちのはにかんだ笑顔と笑い声。この映画は愛についての映画ではなく、愛の映画だと思う。それは観せることではなく与えることに賭けた映画だからだ。ハムレットの言葉を借りるならば“いつかの亡霊(愛)は悪魔の仕業やもしれぬ。もっと確かな証拠が欲しい。それには芝居こそもってこいだ”キックボードに乗ったイケダさんは軽やかにラインを越える。
嘘とか本当とかどうでもよくって、セリフかセリフじゃないかもどうでもよくって、ただ小さな身体を通して語られる言葉や、言葉にしなかったことが、耳や目に残り反響を続けている。会ったこともないけれど、私は確かにイケダさんと出会うことができました。
『あー、面白かった』
と、正直に思った。
あっという間に時間が過ぎ、池田さんの愛を、人生の一部を見せてもらえたのは、贅沢で濃厚なひと時。この映画に心臓鷲掴みにされる人多いんじゃないかな。ちなみに私もそのひとりです。
池田さんといえば、以前我が家で会食した時の事を思い出す。
その時と同じ穏やかさの彼がそこにいた。
抗えないモノ(死)までハンディキャップの一つとして受け入れようとする強さが画面にあった。
淡々とした表情は五体満足なのに どこかが病んでいるボクらの心に微笑みかける。
そして、力を与えてくれる。
一人の、もう今では誰も会うことができない男性の、身体の障害や、セックスしているところや、おしゃれさやユーモアや、元気に生きてるうちから「自分はいつか死んでしまう」と把握していたことや、自分が死んでいくのもふくめて映画にしようとしていた欲望が記録されてる映画なのだが、いちばん良かったのは、彼が(ぼくと同じように)愛することがうまくできないダメな人だったことまで偶然(必然?)映ってしまってるところです。
あたりまえの話ですがマイノリティにも「他人をうまく愛することができない自分」をみとめる自由がある。
人は、死を前にしたときに物語を信じたくなるものなのだとずっと思っていました。でも現実はもっと複雑だ。物語の力とその無力さを、現実の残酷さとその美しさを、あらためてイケダに教えてもらった気がします。あの美しいラストシーン、たぶん一生忘れない。
自らの身体性について誰よりも自覚的であるが故に、その終わりである死を誰よりも明確に理解している。日々ふらふらと不安で慌てている僕らを見ながら聖人イケダは当たり前のように俗を浴びて笑う。
素晴らしく聖なる作品。
底抜けに魅力的なイケダの笑顔。一度も画面に登場しない相棒との絶妙の距離感。いくらでも泣かせることができるのに、それをしない誠実な編集と構成。同業者としては悔しさありの傑作でした。ところでイケダがもうこの世にいないってウソだよね?コロナが終わったら盛大に飲み会をやるつもりなんだけど、彼にも来て欲しい。たのむから、「一度だけでもいいから会いたい」とイケダに伝えてほしい。
余命宣告を受けたら残された時間で何をしたいか、誰でも一度は考えたことがあるはず。
イケダさんの行動は突飛に見えて私は妙に共感した。
彼が求めるものが肉体的繋がりから精神的繋がりへ移行していく様に、生と性のリアルが見える。
生々しくて清々しい問題作の誕生!
モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」を見た後の様な心境です。
池田さんの人間としての溢れんばかりのエネルギーとパワーが画面からはみ出さんばかりに伝わってきました。
「生きる」ということは、誰かが押し付けた規格や、誰かに定められた「自分の肖像画」を自分自身の手で塗り替えていくこと。
そしてドキュメンタリーは、あらかじめ用意していた構成台本から逸脱したハプニングであり、虚実皮膜のあわいにあるということ。おそらく「愛」というものも、そういうものなのかもしれない。
イケダさんが生涯をかけて企画した自分自身についての映画は、極めてパンクなやり方で、改めてそのことを教えてくれた。
この作品は二つの鑑賞方法がある。一つは池田さんの男としてのかっこいいエンディングノート。もう一つは、世の中に対する喧嘩…。
私も俺の「ぶんざい」でと何度も自問自答した。きっと今でも解決には至っていない。
これは、自分が作り出したカオスなのか、それとも社会が生み出した差別という名のセオリーみたいなものなのか…。
そんなぼやっとした感覚をこの映画を見て、再認識した気がする。
この作品は二つの鑑賞方法がある。一つは池田さんの男としてのかっこいいエンディングノート。もう一つは、世の中に対する喧嘩…。
私も俺の「ぶんざい」でと何度も自問自答した。きっと今でも解決には至っていない。
これは、自分が作り出したカオスなのか、それとも社会が生み出した差別という名のセオリーみたいなものなのか…。
そんなぼやっとした感覚をこの映画を見て、再認識した気がする。
観る前は少し身構える感じもあったけど、笑いに笑って清々しい気持ちで家路に着いた。まるで漫才のようなやり取りや、真野さんの眼差し、イケダさんのユーモア。映画中の行為の全てには賛成できかねるけど、でもその中でも、イケダさんの諦念と明るさは、私の胸にしっかり刻まれている気がしています。
彼の虚勢がほろりと溶ける瞬間は最高。
死ぬ時は心も裸になるんだねぇ。
“むきだし”の映画だ。イケダのからだ。イケダの思い。イケダのセックス。イケダの闘病。イケダの……。時に目を背けたくなるが、目を離せない。一方で、そこにフィクションが組み込まれていることに愕然とする。
何が本当で何が嘘なのか。女性の告白に答える場面で、初めてイケダの「素」が見えた気がした。
イケダは去り、映画は残った。さて我々は?
どのジャンルの作品でも、少し時が経つと内容をだいぶすっぽりと忘れてしまう癖があるんですが、この映画は観て何ヶ月も経ったけど、イケダさんのこと、鮮明に覚えてます。めちゃくちゃ面白かったですよ、この映画。時たま思い出しては、イケダさんに会いたいなーなんて考えたりしてる自分がいます。あれ?俺、イケダさんの策中にまんまと、はまっちゃってる??
まあそれもいいか!はめてくれてありがとう、イケダさん。また観て、会いに行きます
最近、法医学の研究もしている身として、人の死に驚くほど「不感症」になっていた私が、久々に映像で再会したイケダさん。その死にゆく男の表情に目頭が熱くなった。生前、食事をしながら女性との交わりについて哲学的に語り、欲をむき出しにした生き様を私にも見せつけたイケダさんが、死の淵のベッドで女優のグラビアを真剣に見つめる姿に救われた気がした。イケダという一人の男が生きた証をぜひ感じていただきたい。
上映中、私たちはイケダになり、イケダの享楽や苦悩を共有し、やがて訪れるイケダとの別離に涙を流す。
上映後、私たちは黒澤映画『生きる』さながらの月並みな日常に戻り、やがてイケダの存在を忘れていく...
世界中の人々は愛を知らない。
そのことにすら気付いてさえいない。
上映中、私たちはイケダになり、イケダの享楽や苦悩を共有し、
やがて訪れるイケダとの別離に涙を流す。
上映後、私たちは黒澤映画『生きる』さながらの月並みな日常に戻り、
やがてイケダの存在を忘れていく...
世界中の人々は愛を知らない。
そのことにすら気付いてさえいない。
THEATER

生来、四肢軟骨無形成症(通称コビト症)という障害を持っていた池田は最後に何を遺したかったのか?
映画の内容はセックスと愛をめぐるものです。
なぜ自分の性愛を映画にしたのか?池田は自分に対する人の優しさに対して、どこか苛立っていたようです。善意と偽善の境界線は曖昧で、池田はそれを問い詰めたりしたことはありませんが、自分を「善なるもの」に押し込めようとする何かに対して、自分の闇を叩きつけたいという衝動が人生の最後に爆発したのだと思います。奇しくも東京パラリンピックとほぼ同時期に公開となった本作は「こんな奴も生きていた」という本当の意味の多様性を見せてくれる作品だと思います。